原子の勉強や哲学の勉強をしていると必ず出てくる2人。
生きた時代は違えど原子に関して2人とも研究していました。
その2人の研究内容や見解の違いを見ていきましょう。
生涯
ますは2人の生涯を簡単に見ていきましょう。
紀元前460年ごろ〜紀元前370年ごろ
トラキア地方のアブデラ出身(バルカン半島南東部)
レウキッポスを師にもつ
アナクサゴラスの弟子でもある
原子論の確立
1766年9月6日〜1844年7月27日
イギリス生まれ
化学者、物理学者、気象学者。
原子説を提唱
今回述べる部分において重要な点は「原子に関する研究や見解の違い」を見ていきます。
原子に対する研究と見解の違い
デモクリトスの主張
- 原子は不生・不滅・無性質・分割不可能な無数の物質単位である。
- たえず運動し、その存在と運動の場所として〈空虚〉が前提とされる。無限の〈空虚〉の中では上も下もない。形・大きさ・配列・姿勢の違うこれら無数の原子の結合や分離の仕方によって、すべての感覚でとらえられる性質や生滅の現象が生じる。
- 魂と火(熱)とを同一視し、原子は無数あるが、あらゆるものに浸透して他を動かす「球形のものが火であり、魂である」とした。デモクリトスは世界の起源については語らなかったが、「いかなることも偶然によって起こりえない」と述べた。
ドルトンの主張
- ある元素の原子は、他の元素の原子とは異なる。異なる元素の原子は相対原子質量によって互いに区別できる。
- 同じ元素の原子は、同じ大きさ、質量、性質を持つ。
- 化合物は、異なる原子が一定の割合で結合してできる。
- 化学反応は、原子と原子の結合の仕方が変化するだけで、新たに原子が生成したり、消滅することはない。
- 元素は原子と呼ばれる小さな粒子でできている。
では詳しく説明していきましょう。
簡単に説明するとデモクリトスは「原子(アトム)」は決して変化せず、消滅しない存在として述べています。
要は物体を分解していくと最終的に「これ以上分解できない究極的に小さい粒になる」という考え方です。
ただ、デモクリトスの考え方で一番良いとされる考え方は、アトムが存在し運動する場所として「空虚」の存在を考えたところです。
例えば、ビリヤード玉が動くためにはビリヤード台がパンパンでは動きませんよね?
台に玉が動けるだけのスペースがあるように、原子にも原子が絶えず運動し続けることのできるスペース(空虚)が存在すると唱えたのです。
そしてデモクリトスの考え方で「無い」ということも「ある」と同様の存在であるという一見矛盾している考え方です。
どういうことかというと、人間が「ない」と判別し表現できる以上それも一つの存在である、という意味です。
具体例を出すと、一個のバケツを想像してみてください。
その中に水が入っていれば「ある」ということになり「存在」ですよね。
水が入っていなければ「無い」という「存在」であると述べたのです。
これは古代である当時で考えれば非常に新しいものだったと言われています。(今でも突飛な考え方だと思いますがw)
つまり「何も無い空間で原子が運動し、結合、分離を繰り返し世界が成り立っている」という原子論ですね。
またその考え方に基づいて、「原子の運動は確実な法則によって成り立っているのだから世界の全ての現象は必然である」と考え「人間に自由意志はない」とし、「機械的世界観」を唱えた哲学者でもあります。
ドルトンの考え方はどうでしょうか?
「質量保存の法則」や「定比例の法則」から物質は最終的に粒からできていると考えました。
要は原子に対するアプローチはデモクリトスとあまり変わらず、「最後の最後まで分割すると粒になる」ということですね。
ではデモクリトスとどう比較できるのでしょうか?
それは「化合物」に対する考え方です。
「化合物は異なる元素の原子が一定の割合で結合してできている」という考え方です。
なぜこれによって上の法則が成り立つかというと、A+BC=AB+Cという風に原子の繋がり方が変わるだけであるため質量の変化はないという説ですね。
まとめ
2人には化合物と原子のみという考え方の違いがあります。
つまりデモクリトスの説をドルトンがさらに突き詰めたって感じに理解してください。
あと個人的な見解ですが『「無い」ということも「ある」と同様の存在である』というデモクリトスの考え方は私はかなりすきです。w
「ある」ということは一つの選択肢であり「ない」ということも一つの選択肢であり、「かならずこうあるべき」という選択肢など存在しない、という風に解釈しています。
柔軟な考え方を多様に取り入れ成長を促してくれる考え方だなぁと思い、考えが詰まった時には思い出して「ない」方にも目を向けようと思いました。