「執念」という言葉の印象を皆さんどのようにお持ちでしょうか?
今現在何かに対して「執念」を持っている方もいると思いますが、それはどんな執念でしょう?
自分が持っている執念が良いものか悪いものか、考えてみたことはあるでしょうか。
今回は「執念」という言葉の意味や似たような言葉との違いをを探りながら「執念」の持つ表裏をのぞいてみましょう。
「執念」の意味
「執念」の言葉の意味は、
ある一つのことを深く思い詰める心。
執着してそこから動かない心。
深く思い込んで、諦めたり忘れたりしない心。
とあります。
「執念」という言葉は比較的日常的によく使われるなじみの深い言葉なので意味は大体わかると思います。
執念の「執」と「念」の意味
「執」という言葉には「執刀・執筆」のように「手にとる」という意味や「執行・執務」のように「とり行う」という意味があります。
もう一つ「とりついて離れない」という意味があり、これが「執念」の「執」の意味だと理解できます。
それでは「念」の意味はというと「思い。気持ち」や「心配り。注意」の他に「かねての望み。念願」とありますので「執念」での「念」は「かねての望み。念願」が当てはまるようですね。
つまり「執念」とは「かねての望みや念願に深くとらわれてそこから動かない心」という解釈で良さそうです。
「執念」をつかった言葉
「執念」は名詞ですが「執念」を使った動詞や形容詞は文学作品によく登場します。
執念の形容詞化である「執念い(しゅうねい)」という言葉は、
執着心が強い。
執念深い。
しつこい。
という意味で、これを連用した終止形「執念く(しゅうねく)」という言葉もありますので意味は「執念深く。しつこく」ということになりますね。
「執する」という動詞もあり「深く心にかける。とらわれる」という意味です。
どれも現代ではあまり耳慣れない言葉ですが、知っておくと本を読むうえで役立ちますね。
似たような言葉との違い
「執着」の意味を理解したところで、似たような意味の言葉との違いを調べてみましょう。
似たような言葉はいくつか存在しますが、実ははっきりとした違いがあるので面白いですよ。
「意地」との違い
「意地」と「執念」を使い分けるとき、どの点に注意すれば良いでしょうか。
どちらも諦めない心を指しているようですが、内容は大きく違います。
そもそも二つの言葉を使う場面も随分違うような気がしませんか?
「意地」と「執念」という言葉からイメージする人物の表情を思い浮かべてみるとおもしろいですよ。
「意地」で諦めずに頑張っている人物の目はどこを見ているでしょうか?
意地が見ている対象は自分自身です。
「意地を張る」という言葉がありますが自分の意思を何が何でもやり通そうとする強い気持ちを「意地」といいます。
対して「執念」のほうは何かをじっと見据えている印象ではないでしょうか。対象が自分の中にはなく、手に入れたい目的が対象です。
「執着心」との違い
「執着心」と「執念」の違いは何でしょうか。
どちらも執着する心(念)を指す名詞ですし、何が違うのか少し難しいですね。
しかし、二つの言葉をまたイメージしてみてください。
「執着心」には人物や物事に固執して他を犠牲にしているような負の印象があります。
「執念」は何としても目的を達成するという覚悟である反面、「執着心」とは目的の実現を阻害する過去の記憶や経験から生まれる潜在意識のことを指します。
スターウォーズep3では、主人公のアナキンスカイウォーカーは過去に母親を殺されたという記憶がつきまとい、それが愛する女性をまた失うのではという執着心に変化してしまいます。
大切な人を失いたくないという恐れの気持ちから生まれる執着心を悪につけこまれ、優秀なジェダイだった彼はダークサイドへと堕ちてダースベイダーとなるわけですね。
「執念」は良いもの?悪いもの?
「執念」とは人にとって良いものなのでしょうか?
それとも悪影響のある感情なのでしょうか?
それはどうやら人の心の中に分かれ道があるようです。
良い意味での使い方
よくスポーツの大会で勝利すると「勝利への強い執念で」などと解説されている場面がありますよね。
この場合、執念が勝利という目的のために努力するというポジティブな行為を引き起こしているわけですから、執念は良いものです。
「執念を持って仕事をする」のように目的のためにわき目もふらず集中している様を表す場合も良い意味での使い方ですね。
悪い意味での使い方
対して「執念深い」という言葉に代表される「執念」の悪いイメージを持っている人は多いのではないでしょうか。
仕返し行為やストーカー行為など「しつこい」という意味がつきまとっているからなのでしょうね。
昔の怪談などでも怨霊が恐ろしいのはその執念深さにあるでしょう。
良い意味でも使われる「執念」はなぜ悪い意味でも存在するのでしょうか?
老子の言葉
「執念」という言葉は良い意味でも悪い意味でも使われますが、良い意味にするのも悪い意味にするのも自分自身だということがわかる、老子の言葉がありますのでご紹介したいと思います。
老子は「無為自然」を理想として説いていますが、裏を返すと「有為不自然」であり、損なわれたり失ったりすることが道理であると教えています。
欲や目的を持つことは不自然なことなので歪みが生じて苦しむのは当然だということです。
執念の末手に入れたものは必ずそれ自体を損なったり失ったりするものだということを理解したうえで、欲や目的を持たなければ執念は執着心に変わり、自分自身を苦しめることになる。
それでは無欲で生きれば良いのかというと神様でない限り、それは無理なことなのでしょう。
損なったり失ったりするものだということを知っていてもなお為したいことがある。それが人間というものなのですね。
「執念」を自身の良い力に変えるのも、自分を苦しめる負の力にしてしまうのも、心構え一つなのです。
まとめ
- 「執念」には「かねてからの念願にとらわれて動かない心」という意味があります
- 「意地」「執着心」は似たような言葉ですが大きな違いがあります
- 「執念」は人の心によって良いものにも悪いものにもなります
今回「執念」について調べながら私には執念というものが足りないのだな…いや、現代人には執念が足りていないのではと感じました。
便利で物があふれた現代に生きる我々は無気力といいますか、何事にも必死さが不足しがちです。
また、必死で手に入れたものも永遠ではないし、失うことへの恐れもあるかも知れません。
それでも何かに執念を持って懸命に目的に向かってこそ、大きな喜びが得られるのでしょうね。
もっと人生を楽しくイキイキとしたものにするには「執念」が大事なのかも知れません。