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こねたのもり

「慚愧の念」の意味!デキる大人は絶対知っている教養講座

現代に生きる我々にとって失ってはいけないものとはなんでしょう。

昔ながらの助け合いや、人を思いやる気持ち。

それらは人として生きていくうえで非常に大切な精神ですよね。

最近、暗くて辛いニュースを見るたびに多くの現代人が失いかけている大切な精神は取り戻せない世の中なのかと不安になることがあるのです。

「ざんきの念」という言葉を耳にしたことはありますか?

漢字で「慚愧の念」と書くのですが、今回はこの言葉についてお話していきたいと思います。

この言葉の意味を知って、私たちが無くしてはいけない大切なものを再確認していきましょう。

「慚愧の念」の意味と使い方


まずは「慚愧の念」とはどういう意味なのか、調べていきましょう。

「慚愧」は以前「ざんぎ」と読まれていましたが、今日の一般的な読み方は「ざんき」のようです。

地位の高い人が使いがちな言葉なので、耳にしたり目にしたりしたとき意味がわかるようにしておくと一目置かれるかも知れませんよ。

「慚愧の念」の意味

まず「慚愧」とは「恥じること」の意味で使われています。

特に自分の見苦しさや過ちを反省して心に深く恥じることを「慚愧」と言います。

もとは仏教語で、慚と愧は別の語です。

  • 慚は、自分に対して恥じるという意味を持っています。自らの心に罪を恥じること、また、自ら罪を犯さないこと。
  • 愧は自分に対して恥じる気持ちを外部に対して示すことを意味します。他人に対して罪を告白して恥じること、また、他に罪を犯させないこと。

次に「念」とは思いや感情のことを指します。

つまり慚愧の念とは「自分の行動や言動を恥ずかしいという思い」のこと。

「慚愧」だけでも使いますが現代では「慚愧の念」という使い方の方が多く見かけます。

対義語

反対語として、無慚(むざん)と無愧(むき)があります。

無慚の意味は、戒律を破りながら心に恥じないこと。
無愧は悪事を起こしてもまったく恥じないことを意味します。

いかがですか、現代人にはこのような人物が多くいるように感じませんか?

本当は人間の心にはちゃんと慚愧の念があるはずなのですが、罪から逃げたいがために自分の心にうそをついて良心を無視して自分の都合よく解釈して生きている人はいませんか?

「言い訳」や「責任転嫁」は無慚や無愧の結果ではないでしょうか。

他人に対しては使えません

「慚愧の念」はあくまで自分の行動を恥じる言葉ですので、身内以外の他人に対しては使いません。

ですから、たとえ他人である相手の行動に腹が立っていたとしても「あちらの言動に慚愧の念が…」という使い方をするのは間違っています。

ちなみに身内というのは家族以外にも自分の部下ですとか社員のことです。

身内が起こした不祥事などに対して責任を持つ立場の人が使います。

「この度わが社の社員が起こした不祥事に慚愧の念が堪えません」という使い方です。

「慚愧の念」に似た言葉


「慚愧の念」の類義語として似たような使い方をする言葉もいくつかあります。

しかし、それぞれの言葉にはしっかりと意味があり、大雑把に一緒に使うのは避けた方が良さそうです。

難しい言葉ですと何となく間違いないように聞こえますが、言葉をよく知っている人が聞けば「おや?」と感じるはずですので、意味を理解して気を付けて使うようにしましょう。

「忸怩(じくじ)たる思い」

忸怩たる思いとは「深く反省して恥ずかしいと思う」という意味。

「このような事態を招き忸怩たる思いだ」という使い方をします。

慚愧の念と類義語ですが、忸怩は「恥ずかしい」という意味で用いる要素が強く、慚愧の念のほうが自分のしたことを恥じて後悔するという意味が強いようです。

「遺憾の極み」

遺憾の極みとは「思い通りにいかず大変心残り」という意味。

「大変残念に思います」を難しい言葉でよく「大変遺憾である」という言い方をしています。

遺憾という言葉は少し冷たく他人事のような物言いに聞こえます。「自分には責任はないけれども残念なことだね」というニュアンスを含んでいる印象です。政治家がよく使う言葉ですよね。

慚愧の念とは心残りの内容が違うようです。

「悔恨の念」

悔恨の念とは「過ちを後悔して残念に思う気持ち」という意味。

悔恨の念に堪えない、悔恨の念に打ちひしがれるなどの使い方をします。

「悔」には残念がる、反省するという意味があり「恨」には悔しいという感情の意味があります。

「後悔の念」と少し違うところは、後悔は自分のしたことに対して悔やんでいるのに対し、悔恨は自分の過ちに対して悔やんでいるという点です。

意味としては一番慚愧の念に近いのではないでしょうか。

政治家がよく使う「慚愧の念に堪えない」


「慚愧の念に堪えない」という言葉は前述したようにある程度立場のある人物が使う言葉のようで、特に政治家が多用している印象がありますね。

しかし政治家が心から慚愧の念を感じているかどうかは疑わしいところです。

本来、深く潔いはずのこの言葉を何の覚悟もなく使っているのは嘆かわしいことです。

急に人が亡くなったときの常套句

間違った使い方の代表格として、弔辞のサンプルなどにもよく出てくる「慚愧の念に堪えません」を挙げます。

「お亡くなりになり、残念で仕方がない」という意味で使うのなら正しくない言葉選びと言って良いでしょう。

正しい意味を知っている人にとってこの使い方はどうも曖昧で単なる常套句と思われても仕方ないと思います。

間違った言葉で弔辞を述べるのは個人に対して礼を失していると批判を受けても仕方がありません。

謝罪での使われ方

政治家などの謝罪会見で「慚愧の念に堪えないところであります」という文言が使われることがあります。

謝罪内容からするとたしかに「自らを省みて恥ずかしい思いでございます」と言うべき内容の不祥事なのですから、当然この言葉が出て然りなのですが、このかしこまったとても真摯な印象を与える言葉を軽々しく使わないでいただきたいと正直感じてしまいます。

「慚愧」という言葉の重さをよく理解して心からの後悔や謝罪にこそ使っていただきたいと私は思います。

犯罪を犯したとき、心から慚愧の念を感じる人間が非常に少なくなっているような気がするのは私だけでしょうか。

まとめ

  1. 「慚愧の念」とは自らの過ちを反省して恥じる気持ちのことです
  2. 「慚愧の念」に似た言葉も意味を理解して使い分けるようにしましょう
  3. 心の込もっていない「慚愧の念」という言葉は使うべきではありません

飲酒運転で人をはねて死亡させてしまった…ついイライラして子供に手をあげて幼い命を奪ってしまった…。

あまりの理不尽さに、テレビのチャンネルを変えたくなってしまうようなつらいニュースが多いこの頃です。

犯罪を犯してしまった人間に一番必要なのは「慚愧の念」です。

残念ながら罪から逃げようとする犯罪者が多いのは正直腹立たしいですし、慚愧の念を持てない人間に更生は望めないと思います。

このようなニュースを目にして犯罪者と被害者の遺族に思いを巡らせるとき、私はいつも、さだまさしさんの「償い」という歌を思い出します。

交通事故で人を殺してしまった男性が一生をかけて遺族に償い続ける内容の歌なのですが、この男性の慚愧の念に息が苦しくなるほど心が動かされます。

また、歌詞の中では遺族である被害者の奥さんの心も動かされるのです。

罪を犯してしまったあと、どう生きるかで真価が問われます。逃げずにせめて心から反省をしてほしい…そう願ってやみません。

  • B!